【泣けるコピペpart.2】本当に泣ける話を厳選してまとめてみたよ!

今回は、私がネットで収集した「泣けるコピペ」の中から、「厳選した泣ける話5本」をご紹介していきたいと思います😊
※内容は一般向けに編集して見やすくまとめてある為、原文とは一部異なります。

駐屯地祭

自衛隊が行う駐屯地祭に、自衛隊の存在を反対する抗議団体が集まっていた。
「憲法の違反だ」とか「税金の無駄遣いだ」とか拡声器を使って叫び、自衛隊の人達を困らせている。

そこに、1人の少女が向かってこう言った。
「あんたらは地元の人間か?」

その質問に対し、団体の人間はこう答えた。
「私達は全国から集まっている」

少女は質問を続けた。
「で、あんたらはここに何をしに来てるんや?」

団体の人間はこう答えた。
「私達は反自衛隊を訴えに来てるんだ」

その時、少女は大声で叫んだ。
「私は神戸の人間や!」

団体の罵声が一度静まった。

少女の叫びはまだ続く。
「あんたらな?私が電車で遥々何しにここに来たか知ってんのか!
地震で埋もれた家族助けてくれたのはここの部隊の人や!

寒い中ご飯作ってくれて、風呂も沸かしてくれたのもここの人や!
治安悪くなった被災地を巡回して、夜な夜な守ってくれたのもここの人や!

あんたらに「消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感」が分かるのか?
そんな中ここの人達は歩いて来てくれはったんじゃ!」


団体のメンバー達はバツが悪そうな表情に変わった。

少女の叫びは次第に涙声に変わっていく。
「そんな命の恩人達に私はお礼を言いに来たんや!」

その言葉を聞き、団体達は大人しく撤退していった。

少女が駐屯地の門を通る時、守衛は彼女に対し軽いお辞儀などではなく直立不動で敬礼をしていた。

輸血

あるベトナムの村の孤児院が爆撃を受けました。
スタッフと2人の子供が即死。その他の者も重傷者多数。

その中でも8才の少女は大量出血の為危篤状態でした。
少女は早く手当をしないと命を落とす事になります。

しばらくして、アメリカ海軍の医者と看護婦が救護に来ました。
輸血が必要でした。

しかしどうそれを行うのかが問題でした。
言葉が通じない為、ジェスチャーを使ってまず子供達を集めます。
そして、今の状況を説明し、誰かが血液を提供する事が必要だと伝えようとしました。

沈黙の時間がしばらく続いた後、一本の細い腕が恐る恐る上がりました。
ヘングという名の少年でした。

急いで輸血の準備が始まります。
苦しむ少女の隣に少年を寝かせ、輸血用の管を取り付けます。
少年は黙ったまま天井をじっと見つめていました。

しばらくすると、少年は自由になってる手で顔を覆い、しゃくり上げるように泣き出しました。
医師が「どうしたの?」と尋ねても、少年は大粒の涙をこぼしながらも何も言いません。

しばらくして、別の村からベトナム人の看護師が現れました。
少年は看護師と会話した後、緊張な表情も緩み始めま泣き止んでいました。

医師は看護師に、少年が泣いていた理由を尋ねてました。
そしたら看護師は、こう説明をします。
「彼は輸血の説明を全く理解してませんでした。自分の血液を全て少女を救う為に提供しなきゃいけないと思って自分はもう死ぬと思ってたようです」

医師は驚いて、彼にこう尋ねてもらいました。
「君はどうして、死を覚悟してまで輸血を決意したですか?」

少年はこう答えました。
「あの子は僕の友達なんです」

アルバム

うちは貧乏な母子家庭でカメラなんて持ってなかった。
写真の代わりにとほぼ毎日母さんは、色鉛筆で俺の絵を描いてアルバムにしまっていた。
母さんは絵が得意じゃないけど、どうにかして形に残しておきたかったらしい。

俺の赤ん坊の頃の絵の隣には
「機嫌が悪いのかな?」
「すやすや眠ってます」
とかコメントまで書いてあった。

でも、そのアルバムを小4の時、家に遊びに来た友達に見られて大笑いされた。
貧乏を馬鹿にされた事が悔しかった。
俺は友達が帰った後、すぐにそのアルバム3冊をバラバラに破いてゴミ箱に捨てた。

それをパートから帰って来た母さんが見付け、号泣していた。
破いた理由を話しても、母さんはずっと泣き止まらなかった。
気まずい空気に耐えられず、俺は自分の部屋に逃げ込んだ。

翌朝、俺が起きて居間へ行ったら母さんが何かをしていた。
破いた絵の破片をゴミ箱から集めてテープで修復していたのだ。

母さんは俺が居た事に気付いて、申し訳無さそうな顔をしながら謝ってきた。
「私のせいで恥ずかしい思いさちゃってごめんね⋯?でもね、これは母さんの宝物なんよ⋯」

申し訳無い気持ちに溢れ、俺は止めどなく涙が流れた。

最後の親孝行

無職片桐康晴被告は、京都市伏見区桂川河川敷で2月1日、認知症の母親の介護で生活苦に陥り、母親を殺害し自分も無理心中を図った。

その事件の初公判は19日に行われた。
検察官は事件の詳細から、被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていった過程を詳しく供述していた。

片桐被告は母親を殺害後、自らも自殺を図ったが一命を取り留めた。
被告は両親と3人暮らしだったが、95年に父が他界。
それから母親に認知症の症状が出始め、その介護を被告は1人で行っていた。

05年4月頃から母親は深夜に徘徊し始める等、症状は更に悪化した。
徘徊した母親が警察に保護され、深夜迎えに行く事も増える等、被告の生活は昼夜逆転した。
介護と仕事を両立させる事が難しくなり、被告は9月に退職する。

生活保護を申請したが失業給付金を理由に認めらなかった。
12月にはその失業保険の給付も止まり、被告は生活の為に借金をする様になる。
でも、その借金も限度額まで達し、アパート代すらも払えなくなり、被告は06年1月31日に心中を決意した。

「最後の親孝行に⋯」
そう考えて被告はこの日、車椅子の母を連れ京都市内を観光をした。

2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で、被告が母親にこう言った。
「もう生きられへん⋯ここで終わりや」

母親は答えた。
「そうか、もうあかんのか」

被告が母親に
「すまん⋯一緒に逝こう」
と言うと、母親は涙を流しながら
「康晴はわしの子や。わしが殺ったる」
と言った。

被告はこの言葉を聞き殺害を決意し、母の首を絞めて殺害後、自らの首を包丁で切り自殺を図った。

今回の犯行に対して被告はこう供述をしています。
「僕は母の命を奪ってしまいましたが、もう一度母の子に生まれたいと思っています」

検察官の冒頭陳述を、片桐被告は肩を震わせてながら眼鏡を外し右腕で涙をぬぐいながらも、姿勢良くずっと上を向きながら聞いていた。

東尾裁判官も目を赤くして言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえてまばたきするなど法廷は静寂に包まれていた。

ミートソース

うちの母が作るミートソースは、とても旨かった。
家族全員の大好物だった。
でもそのレシピを聞かない内に、母は急性白血病で亡くなった。

亡くなって数年経ってから、父が急に言い出した。
「あのミートソース食いたいな」

私も弟も食べたかったので、あの味の再現をしてみる事にした。
ベースは某メーカーの缶詰ミートソースだというのは知ってた。

でも、そこに何を足せば母の味になるのかが分からない。

私と弟で色々とブレンドし、三日連続で作り続けてた為、毎日三食がミートソーススパゲティになった。
諦めかけてた四日目にやっと、あの母の味を再現する事に成功した。

最初は皆で
「コレだよ!コレ!」
と絶賛しながらがっついてたが、次第に言葉は無くなって、食べ終わる頃には皆涙を流していた。

うちでは今でも必ず母の命日に、そのミートソースを食べている。

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